小林 宏晨(日本大学名誉教授)

 

 

 

 

 

 外国のために、非公然または非合法に行われる各種の情報収集、工作活動が一般に「スパイ活動」と称され、そうした活動に従事する者が「スパイ」と定義される。スパイ活動が法的に規制される場合、当然人権問題が発生する。

 旧「スパイ防止法案」は、結論として、人権の制限に関して、欧米諸国の法律と比べて、全く遜色がない。むしろ「大骨、小骨が抜かれて、ざる法である」との非難もなされている程である。

 欧州諸国のスパイ防止関連諸規定と我が国のスパイ防止法案の諸規定とを比較するに当たり、とりあえず5つの事項を基準とする比較が可能である。

 第1は、犯罪構成要件の明確性、第2は、裁判官の裁量の余地、第3は、量刑の多少、第4は、情報公開もしくは「知る権利」との関係、第5は、「通信の秘密」制限の実態である。

1. 犯罪構成要件の明確性

 コモンロウ地域(例えばイギリス及びアイルランド)においては、我が国よりも犯罪の構成要件がより明確であるとは言い難い。例えば、イギリスの「公務機密法」では、処罰可能範囲が極めて包括的であるばかりか、秘密規定さえ、処罰の前提とされていない。この点に関しては、フィンランドを含むスカンジナビア諸国も同様である。スイスもオーストリアもスパイ活動そのものが処罰対象とされ、秘密指定が処罰の前提とされていない。ドイツでもこの点は同様だ。総じて調査対象とされた欧州9カ国のスパイ防止関連規定の中に見られる犯罪構成要件は、我が国の旧「スパイ防止法案」規定のそれよりより明確であるとは言い難いどころか、あまりにも総合的かつ包括的過ぎると言わざるを得ない。当然、人権制限の可能性が高い。

2. 裁判官の裁量の余地

 コモンロウ地域では裁判官の裁量の余地は、我が国よりもはるかに狭められている。例えばアイルランドの「公務機密法」の対象事項の機密性の決定は、所管大臣の事後の証明書に委ねられている。イギリスの「公務情報保護法」も権限なき機密漏えいの危険性の決定が所管大臣の証明書に委ねられている。スカンジナビア諸国やドイツ語圏(スイス、オーストリア、ドイツ)諸国では、確かに行政指定の「形式秘密」と裁判所決定の「実質秘密」を区別する制度は残されている。しかし「秘密指定」が処罰の前提とされていない限り、被告には不利となる可能性が、我が国の旧「スパイ防止法案」諸規定よりも強い。一般的に執行府の裁量の余地が大きく、司法の余地が狭められる場合、被告には不利となる可能性が高くなる。

3. 量刑の多少

 量刑については、一般的に、欧米の刑罰が我が国の法案のそれより厳しい。例えば、最高刑がスイスでも、スウェ-デンでも終身刑、ドイツでのみ我が国よりも多少軽い程度である。しかしドイツでは、公務員の機密漏えいに対して、より厳しい態度で臨んでいる。他の欧州諸国の諸規定は、概ね我が国のそれと同程度である。

4. 情報公開もしくは「知る権利」との関係

 イギリスでは、1980年代には、未だ情報公開法が存在せず、厳密な意味での「知る権利」も存在しなかった。しかし政策立案と民主主義のプロセスを改善するために、情報公開の要求に応え、「政府情報にアクセスする手続き要綱」が1994年4月に実施された。「要綱」の第二部で、なかんずく、1.(a)国の安全または防衛を害する情報、1.(b)国際関係の慣行または取決めを害する恐れのある情報、1.(c)外国の政府、裁判所または国際機関から機密保持の条件で受取った情報等々は除外されている。

 ドイツでも80年代には情報公開法(情報自由法)が存在しなかったが、2006年1月に「連邦情報へのアクセスを規定する法律」が制定された。しかしそこでは、なかんずく、(a)国際関係、(b)連邦軍の軍事利益またはその他の安全保障の機微に属する利益、(c)対内または対外安全性に係る利益、諸事項に不利益な影響を及ぼす可能性がある時、情報の開示請求権が存在しないと規定されている。

 翻って我が国では、平成11年(1999年)にいわゆる「情報公開法」が制定されたが、そこには欧米諸国に見られるような「防衛機密」の除外条項は見られない。

5.「通信の秘密」制限の実態

 「通信の秘密」制限は私が調査した西欧9カ国で例外なく実行されている。コモンロウ諸国では執行府の特権と理解されており、フランスやイタリアでも執行府による認可制度が確立している。スカンジナビア諸国、スイス及びオーストリアでは、裁判所の許可を得て行われている。ドイツでは議会が選任する裁判官資格のある者が許可権限者とされている。全体主義諸国の実態については推して知るべしで、検討の必要さえない。しかし、ドイツあるいはスカンジナビア諸国の先例をある程度参考にした「傍受」の制度設定が望ましい。

 総じて我が国の「スパイ防止法案」は決して非難に値する様な悪法ではない

おわりに

 衆知のごとく、一般国際法では他国に対するスパイ活動の一般的禁止は存在しない。しかし諸国は、例外なく重要な国家機密の外国への漏えいを禁じている。とりわけ外国人によるスパイ活動の禁止措置は、こちら側のスパイが摘発された場合、あるいはスパイと見做された場合、スパイの相互交換のために必要不可欠でもある。人権を尊重しながら国家の安全のためにスパイ防止措置を講ずることは主権国家の不可欠な要件である。

 

小林 宏晨(こばやし ひろあき)
日本大学名誉教授。昭和12年(1937年)、秋田県生まれ。
52年に上智大学教授、61年から日本大学法学部教授。
平成19年(2007年)4月、秋田県上小阿仁村村長選挙に出馬し当選。著書・論文多数。